風味豊かな嬉野茶、健康茶は佐賀県嬉野市の川原茶業で。
多数のお茶を取り揃えております。

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嬉野茶のこと

古い茶の歴史を持つ嬉野茶の伝統技術と最新技術を持つ川原茶業の茶師たち。「鍋島藩の嬉野茶」はこだわりの土地と地域で育った嬉野茶の原料をもとに、経験豊かな茶師たちによって安全につくられています。
川原茶業の「鍋島藩の嬉野茶」は限られた一等地で育てられた“純”嬉野茶のブランドです。

嬉野茶

銘茶の産地、佐賀県嬉野

美しい茶畑が広がるのどかな嬉野盆地。霧が深く澄んだ空気と肥沃な大地。
恵まれた気候風土のもとで薫り高い銘茶が育ちます。
嬉野は長い歴史を持ち、銘茶の産地としての人々に広く知れ渡りました。

佐賀県・嬉野
嬉野茶の条件

佐賀県、または長崎県において生産された原料を仕上げ、加工した茶を統一銘柄「嬉野茶」とする。

鍋島藩の嬉野茶の条件

鍋島藩が支配した佐賀県内の限られた地域で生産された原料を仕上げ、加工した茶を「鍋島藩の嬉野茶」で出荷する。

嬉野茶の歴史

1191年

茶栽培の発祥の地、霊仙寺 茶栽培の発祥の地、霊仙寺

日本のお茶栽培は、1191年臨済宗の開祖栄西禅師が佐賀県の東脊振の山腹に宋の国から持ち帰った種を蒔いたのが始まりです。栄西は明恵上人に3粒のお茶と栽培や製造方法を伝授。これが後の宇治茶につながり、また駿河(静岡)にも広がりました。

1504年

釜炒り茶発祥の地、嬉野市 釜炒り茶発祥の地、嬉野市

陶工「紅令民」が明の釜を持ち込み、炒葉製茶法を伝えたのが嬉野式の釜炒り茶の始まりです。

1593年

鎮西町名護屋城にあった豊臣秀吉の茶室 鎮西町名護屋城にあった豊臣秀吉の茶室

桃山時代、名護屋城に豊臣秀吉は、わび・さびを追及した簡素な茶室を建てました。博多商人の日記に「お座敷四畳半、柱もその外もみな竹なり」との記述が残っています。

1600年

鍋島藩の茶道「薮内流」 鍋島藩の茶道「薮内流」

関が原の戦いで豊臣方についた鍋島藩の御家取り潰しを救ったのは西本願寺と円光寺、そして京都の茶商上林之人です。鍋島藩はお礼として、上林を藩のおかかえの「永世用達」茶所にし、また、西本願寺の推薦する茶道薮内流を藩の流派に決めました。

1651年

うれしの茶の父、吉村新兵衛 うれしの茶の父、吉村新兵衛

吉村新兵衛は嬉野町不動山の山林を開拓して茶樹の栽培を奨め、茶業の発展に努めました。
不動山の「大茶樹」は吉村新兵衛が植えたと伝えられ、国の天然記念物に指定されています。

1736年

佐賀県生まれの、煎茶の祖「売茶翁」 佐賀県生まれの、煎茶の祖「売茶翁」

「ただ飲みも勝手、ただよりまけもうさず」。京都で、日本で初めての茶店「通仙亭」を開き、庶民に煎茶を広めた売茶翁(ばいさおう)は佐賀県蓮池町の出身です。
当時、位の高い人の飲み物だったお茶を広く世間に流行させました。

高遊外売茶翁(こうゆうがいばいさおう)とは...? 高遊外売茶翁(こうゆうがいばいさおう)とは...?

煎茶は抹茶の飲み方とは異なり、茶葉にお湯を注いだり、お湯に茶を投じたりして飲むお茶です。その煎茶道の始祖と呼ばれているのが佐賀県出身の高遊外売茶翁(こうゆうがいばいさおう)といわれています。売茶翁は京都で「通仙亭」と名づけた茶店を開き、売り茶業をしました。禅を説きながら茶を売る翁(柴山元昭)を見て、世の人々から「売茶翁」と呼ばれ親しまれたそうです。また煎茶の中興の祖とも称されています。

1760年

江戸時代にお茶の輸出 江戸時代にお茶の輸出

嬉野茶は、横浜開港により日本茶輸出が正式に始まる100年も前に、オランダ商社を通じて長崎から輸出されました。

1853年

長崎の女性貿易商、嬉の茶を世界に 長崎の女性貿易商、嬉の茶を世界に

大浦慶はオランダ人テキトル氏を通じ、嬉野茶の見本をイギリス、アメリカ、アラビアに送り宣伝しました。そのPRのかいがあり、イギリスから60トンの大量の茶の注文を取り付けることに成功しました。

栄西が中国から佐賀に持ち帰ったお茶。 栄西が中国から佐賀に持ち帰ったお茶。

お茶を普及するため、その効用を綴った『喫茶養成記』は、20世紀になって次々に科学的に実証されてきました。おそるべし栄西。そして、現代の生活習慣病を予想するかのように、日本型食生活にしっかり取り入れられたお茶。先人の知恵にただただ敬服するばかりです。

化霖和尚と嬉野市塩田のゆかり

佐賀県巨勢村龍津寺の開基でもある化霖和尚は、筑後柳河の方黄檗山に登り、陰元に参じて仏法を修めます。

化霖和尚について「塩田郷土記」には…

佐賀県巨勢村龍津寺の開基化霖和尚は売茶翁の師僧なり、化霖隠居して塩田馬場下に一寺を建て、延明寺と称し、老を養ふ、黄檗宗なり。化霖学徳高く三世紫石介和尚亦学深く書をよ くせり、ともに境内岩石刳ぐりて祀れり、明治維新に到り一明如三禅師を似て廃寺となり…

また「田村為海著 売茶翁年譜」によれば、

化霖は筑後柳川の人で俗称中河原、(中略)寛文五年、藤津郡塩田に隠居していた藩主直澄は塩田に慈眼山円明寺を建てて住まわせた…

そして円明寺は「塩田郷土誌」によると“延明寺”と記され、また「藤津西分神社仏閣辻堂辻宮調帳」には“馬場下村黄檗宗龍津寺末寺明寺敷地四畆七歩寺番大興”と記されて います。つまり佐賀県嬉野市塩田町にあった円明寺は、売茶翁の師僧である化霖和尚が住んだ寺ということです。

慈眼山・円明寺(延明寺)

寛文五年。塩田に隠居しておられた鍋島藩主鍋島直澄は、塩田町馬場下村下野辺田に慈眼山・円明寺を建立しました。
円明寺は売茶翁の師僧であられた化霖和尚が住まわれた師僧ゆかりの寺であり、明治の初めに廃寺になりました。その寺跡は今もなお嬉野市塩田町下野辺田にあります。
寺跡裏の岩場には無縫岩と刻した岩があり、その下に、「済北三十六世紫石大和尚真龕」「済北三十五世鏡宗老和尚真龕」と刻した中国式の扉石があります。これは紫石、鏡宗の墓。つまり売茶翁の 師僧である化霖和尚の墓です。
現在、寺跡には前田さんという方が住まれていらっしゃいます。以前、前田さん宅には直澄公の位牌が奉られていましたが、“これは 殿様の位牌であるので粗末にしては申し訳ない”と、先年直澄公ゆかりの寺である光桂禅寺へ預けられ光桂禅寺にて奉ってあります。
また、売茶翁(柴山元昭)の父、柴山杢之進常名の墓も同じ嬉野市塩田町にあります。柴山杢之進常名は、天和三年一月江戸で死去しました。墓は嬉野市塩田町五町田小学校北側の桜谷(五町田小学校とんとん坂の西側)にあり、「柴山権現」と称されています。

  • 慈眼山・円明寺(延明寺)1
  • 慈眼山・円明寺(延明寺)2
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